西村幸生公式サイト

訪ねる

西村幸生にゆかりの場所

記録公的記録・一次資料 伝聞回想・二次資料 要確認資料間で食い違う、または裏取り前使用した資料は典拠のページに一覧しています。
並んで立つ二つの胸像
並んで立つ二つの胸像伊勢市倉田山公園野球場(ダイムスタジアム伊勢)。手前が西村幸生像、奥が沢村栄治像2026年9月撮影
一塁側スタンドの脇に立つ胸像
一塁側スタンドの脇に立つ胸像伊勢市倉田山公園野球場2026年9月撮影

墓

西村幸生の墓
西村幸生の墓正面に戒名「幸岳院悟参球道居士」、側面に「俗名 西村幸生 行年三十六歳」2026年9月撮影

宇治山田中学校の跡

記録跡地は船江公園になっている。園内に「三重県立宇治山田中学校跡」の石柱と、伊勢市の案内板が立つ。案内板によれば、山中は明治32年(1899)に三重県第四尋常中学校として設置され、翌年から船江町横枕のこの地にあった。木造校舎は昭和20年(1945)7月29日未明の空襲で焼失し、昭和23年の学制改革で歴史に区切りをつけた。

記録正門の石柱は一対が宇治山田高等学校に、もう一対が伊勢高等学校の校門として残る。寄宿舎の煙突に使われていた煉瓦は、この案内板の下にある。煙突跡は北東へ150メートルの地点で、記念モニュメントと案内板が立っている。

記録案内板は山中の卒業生の著名人として、浜地文平(国会議員)、岩田準一(画家)、小津安二郎(映画監督)、竹内浩三(詩人)とともに、西村幸生(野球選手)の名を挙げている。

移設前の姿

西村幸生の胸像
西村幸生の胸像伊勢市営球場前。2014年に沢村像と並べて移設される前の姿

胸像は2014年に沢村像と並べて移設された。それまでは伊勢市営球場前に、離れて立っていた。

喜多や

記録伊勢市駅から外宮へ向かい、外宮の北側を走る道路に面して、うなぎ料理の喜多やがある。伊勢に多い妻入り造りで、間口が狭く奥行が深い。入口の脇に篠竹が植えられ、「孝行鰻」の由来を墨書した木の看板が立つ。このあたりは空襲を免れた。

記録西村家の生家である。幸生の母・なかから受け継がれ、弟の久生が長く主人を務めた。現在は久生の長男で、幸生の甥にあたる西村隆明が営んでいる。

記録大世古の家も、通学した厚生小学校も、宇治山田中学校も、1945年7月の空襲で焼けた。そのなかで、この家は残った。墓も、家も、家業の店も、伊勢にある。

記録妻の末子と四人の娘は、戦後ハワイへ渡った。幸生の家族は、いまも伊勢とハワイの二つの土地で暮らしている。

記録久生は生前、西村投手のリーフレットをつくって店の戸口脇に置き、訪ねてくるファンに配っていた。「今でもわざわざここへお見えになる阪神のファンの方がおりましてな。そんな方のために何か一つ差し上げるものをと思いまして」。そのリーフレットには、最後の軍事郵便に本人が記した署名が複写されている。

喜多やは営業中の料理店です。展示施設ではありません。訪ねられる際は、お店の営業のご迷惑にならないようお願いします。