資料室
資料のあいだで食い違う点と、確認できたこと
西村幸生について書かれたものは多くありません。そのうえ、生前を知る人の多くがすでに亡くなっています。資料によって記述が異なる事項は、どちらが正しいかを断定せず、両論を並べたうえで、どちらを採るかを記しています。
評伝『初代巨人キラー』と、同時代の記録である『タイガースの生いたち』の全文にあたり、確認できた事項を「解決」と表示しています。
食い違いの整理
満州での所属先解決
- 新京電電Wikipedia。満洲国新京特別市(現・長春市)の実業団チームとする。
- 大連実業団関西大学 年史編纂室。「昭和15年、大連実業団に迎えられた」とする。
- 満州電電(新京)のち太陽バルブ(大連)中村博男『初代巨人キラー』。新京の満州電電に約一年勤め、次女の重病を機に大連へ移り、太陽バルブに入社したとする。
評伝の記述が最も具体的で、新京と大連の両方が出てくる理由も説明できます。本サイトでは「はじめ新京の満州電電、のち大連の太陽バルブ」と表記します。
戦死したときの年齢解決
- 満34歳関西大学 年史編纂室。1910年11月生まれ・1945年4月没なので、満年齢では34歳5か月。
- 35歳伊勢市公式ホームページ。
- 36歳講談社 日本人名大辞典+Plus(コトバンク)。墓石の側面も「行年三十六歳」と刻む。
墓石の「行年三十六歳」は数え年です。本サイトでは「満34歳5か月(数え36歳)」と表記します。
関西六大学リーグの連覇の数え方解決
- 8連覇1932年春から1936年秋まで、1934年の一時脱退を挟んで通算8シーズン優勝と数える。
- 4連覇を2度脱退の前後をそれぞれ4連覇と数える。
同じ事実の数え方の違いで、矛盾ではありません。1934年は連盟を脱退していたため公式戦がなく、その年も東京六大学の四校と戦って五勝一分でした。
末子との出会い本サイトの採用を明記
- 昭和8年、第1回ハワイ遠征の往路中村博男『初代巨人キラー』。末子は熊本の祖父母を訪ねた帰りで、一人で秩父丸に乗っていた。著者は末子本人に確認している。
- 昭和6年、アメリカ遠征の帰途松木謙治郎『タイガースの生いたち』。末子は兄と同伴で、その兄が酒好きだったことが縁になったとする。
年も船も経緯も異なります。本人への直接取材である前者を採ります。なお、二人が三年間文通していたという話が流布していますが、末子は「手紙のやりとりなんかしませんでした」と明確に否定しています。
1938年 年度優勝決定戦 第3戦の勝利投手本サイトの採用を明記
- 御園生崇男公式記録。また松木謙治郎『タイガースの生いたち』巻末の対戦記録表も御園生とする。
- 西村幸生同じ『タイガースの生いたち』の本文。八回途中までを投げた西村を勝利投手と記している。
当時の勝利投手の規定は現在と異なりました。一点リードの八回途中で降板しているため、現在のルールなら西村が勝利投手、救援の御園生にセーブがつきます。公式記録に従い、経緯を注記します。
最後に家族が見た姿聞き取りで確認
- 大連の道で、窓から手を振って長女・幸子が1977年のインタビューで語ったもの。「すぐ帰ってくるから、ビールをたくさん集めておけ」と冗談を言って去った。
- 門の内側で見送り、振り返らずに拳を上げた関西大学の会報に載った記述。
場所も所作も異なります。ご本人への聞き取りで確認します。
鎮魂の碑に祀られている人数解決
- 69名1981年の建立当初。
- 73名NPB公式(2015年)。
- 76名野球殿堂博物館(2021年に3名追加後)。
追加合祀により、時期によって公表数が異なります。
これから調べること
- 要確認靖国神社・三重県護国神社への合祀の有無
- 要確認1939年の対巨人戦の登板数(資料により三試合/一試合)
- 要確認満州時代の写真の年と所属チーム
- 要確認最後の軍事郵便の現物の所在
確認できたものから、順に確定していきます。新しい資料をご存じの方は、お問い合わせからお知らせください。