西村幸生公式サイト

伝統の一戦は、伊勢から始まった

沢村栄治と西村幸生——最初の三度の日本一を決めた、二人のエース

当時のタイガース全選手
当時のタイガース全選手昭和12年。前列右から6人目が西村

はじめに

巨人と阪神の対戦は「伝統の一戦」と呼ばれる。その最初の三年、1936年から1938年にかけて、日本一を決める試合はすべてこの二球団の間で行われた。そして三度の決定戦の勝敗を分けたのは、二人の投手だった。巨人の沢村栄治と、大阪タイガースの西村幸生。二人はどちらも三重県宇治山田市、いまの伊勢市に生まれている。

片方は永久欠番と賞にその名を残し、片方は一冊の評伝と一体の胸像に記憶されている。戦後の顕彰には差がついたが、1930年代のグラウンドの上では、二人は互いに相手を倒すべき主戦投手だった。

一 二つの球団が生まれたころ

日本に職業野球が生まれたのは1934年(昭和9)である。この年の秋、ベーブ・ルースやルー・ゲーリッグを含む大リーグ選抜が来日し、全日本チームと対戦した。全日本は全敗したが、静岡・草薙球場での一戦で、京都商業の5年生だった17歳の沢村栄治が8回を投げ、ゲーリッグの本塁打による1点に抑えた。この試合が、日本人に「職業野球」という言葉を初めて現実のものとして感じさせた。大リーグ選抜の帰国後、同年12月に大日本東京野球倶楽部、のちの東京巨人軍が結成され、翌1935年末には大阪野球倶楽部、大阪タイガースが生まれる。

1936年、七球団で日本職業野球連盟が発足し、リーグ戦が始まった。日本の団体競技で全国規模のリーグ戦が行われるのは、これが初めてだった。当時、野球といえば東京六大学、とりわけ早慶戦であり、学生野球のほうが広く知られていた。球団側は東京対大阪という対抗の構図をつくって、新しい職業野球に人を呼び込もうとした。「伝統の一戦」という言い方が定着するのは戦後、1949年から50年の二リーグ分立前後のことで、両球団の誕生からわずか十数年で「伝統」と呼ばれるようになった背景には、早慶戦に負けじとする意識があったとされる。

つまり、二人が投げ合った時代の巨人対タイガースは、まだ「伝統」ではなかった。それは生まれたばかりの対抗戦であり、二人の投手がその最初の型をつくった。

二 伊勢という土地

宇治山田市は伊勢神宮の門前町である。沢村栄治は1917年(大正6)2月1日、岩渕町に生まれた。西村幸生は1910年(明治43)11月10日、大世古町に生まれた。年の差は7歳。町は近いが、少年時代に接点があったという記録はなく、プロ入り前の交流はほとんどなかったと伝えられている。

二人が野球を覚えた小学校も別だった。沢村は明倫小学校、西村は第七尋常小学校(現・厚生小学校)。その後の道も対照的である。沢村は京都商業に進んで甲子園に三度出場し、日米野球で名を挙げて、卒業を待たずに巨人に入った。西村は宇治山田中学で三塁手から投手に転じ、実業団の愛知電気鉄道鳴海倶楽部を経て関西大学に進み、法学部を卒業してからタイガースに入った。片方は18歳でプロの初代エースになり、片方は26歳で大学野球の頂点からプロに来た。

関西大学時代の西村は、1932年秋の東西交流戦で東京六大学の五校すべてに勝ち、来日したミシガン大学にも勝っている。沢村の日米野球が全国に知られたのと同じように、西村の名も学生野球の世界では知られていた。学生野球のほうがよく知られていた時代に、二人はそれぞれ学生野球での名声を持ってプロに入ったのである。

三 最初の三度の決定戦

1936年(昭和11)。秋のリーグ戦を終えて、巨人とタイガースの間で初めての優勝決定戦が行われた。会場は東京の埋立地に三か月で建てられた洲崎球場。三連戦は巨人が二勝一敗で制し、沢村の力投が勝敗を分けた。この年、沢村は日本の職業野球で史上初のノーヒットノーランも達成している。「洲崎の決戦」と呼ばれるこの三連戦が、巨人対阪神の原点として今も語られる。

1937年(昭和12)。この年から春秋の二シーズン制になった。春は巨人が優勝し、沢村は24勝4敗、防御率0.81で史上初のMVPに選ばれた。秋はタイガースが39勝9敗で独走し、西村は15勝3敗、防御率1.48で最多勝と最優秀防御率の二冠。対巨人戦は4勝無敗だった。12月1日から7日、年度優勝決定戦。第1戦、西村と沢村が投げ合い、タイガースが4対1。第3戦も西村が完投勝ち。巨人が二つ取り返して3勝2敗と迫った第6戦、再び西村と沢村。タイガースが6対3で勝ち、初の日本一となった。西村は登板した三試合すべてを完投で勝った。

1938年(昭和13)。春はタイガースが連覇し、西村は11勝4敗、防御率1.52で二季連続の最優秀防御率。秋は巨人が優勝して再び決定戦になった。第1戦に先発した西村は延長10回表までを2失点に抑え、その裏の押し出しで勝利投手。タイガースはそのまま四連勝で二年連続の日本一を決めた。

三度の決定戦。一度目は沢村の巨人、二度目と三度目は西村のタイガース。二人がプロで最後に投げ合ったのは1937年9月25日、西宮球場だった。その後、沢村は兵役で肩を痛め、西村も1939年に肩を故障して、二人の投げ合いは二度と実現しなかった。

四 当時の日本人にとって

この時代、野球選手は学生であれ職業野球であれ、芸能人のような存在だったと言われる。テレビのない時代、人々はラジオの実況と新聞のスポーツ面で試合を追い、選手のブロマイドが売られ、名前と顔が全国に知られていた。学生野球のほうがよく知られてはいたが、グラウンドは当時の日本でもっとも華やかな舞台の一つであり、そこに立つ投手は時代の顔だった。

二人の投手の名前は、すでに全国に届いていた。沢村の名は1934年の草薙球場で、ベーブ・ルースを相手に投げた少年として。西村の名は、東京六大学を総なめにした関西大学の主将として。学生野球の全盛期に、学生野球のファンが知っている二つの名前が、生まれたばかりの職業野球で投げ合っていた。それが、東京対大阪という対抗の構図に、伊勢出身の二人という物語を加えた。

もう一つ、時代の空気を書いておかなければならない。1937年7月、日中戦争が始まった。東京六大学野球のラジオ放送は、この年から平日の中継が中止になった。西村と沢村が投げ合った同年12月の決定戦は、南京陥落の直後にあたる。娯楽の場は狭まりつつあり、その中で職業野球は続いていた。二人の投げ合いを見た人々にとって、野球場はまだ日常が保たれている場所の一つだった。1940年からは球団名や野球用語の英語使用が禁じられ、1943年には学生野球が中止になる。二人が投げた三年間は、戦争が生活に入ってくる直前の、短い時間だった。

五 戦争

沢村は1938年に最初の召集を受け、手榴弾を投げさせられて右肩を痛めた。二度の兵役の間に速球は失われ、1943年のシーズンを最後に巨人を解雇された。三度目の召集で1944年12月2日、フィリピンへ向かう輸送船が撃沈され、戦死した。27歳。

西村は1939年の肩の故障で契約が切れ、タイガースを退団した。1940年に満州へ渡って実業団で一年投げ、現役を退いた。1944年3月に召集され、1945年4月3日、フィリピン・ルソン島南部のバタンガスで戦死した。満34歳。家を出るとき「すぐ帰る。心配するな。ビールをうんと貯めて待っていろ」と言ったと伝わる。

二人は同じ町に生まれ、同じ球団同士の対戦で日本一を分け合い、四か月の間をおいて、同じフィリピンで命を落とした。戦争で亡くなった職業野球選手は、東京ドームの鎮魂の碑に祀られているだけで七十名を超える。そのうち野球殿堂入りしているのは六名で、沢村と西村はその二人である。

六 戦後、「伝統」になる

1947年(昭和22)7月9日、巨人は沢村の背番号14を、日本のプロ野球で初めての永久欠番にした。同じ年、読売新聞社が「沢村栄治賞」を制定した。大リーグのサイ・ヤング賞より九年早い。

1949年(昭和24)3月30日、伊勢では旧宇治山田中学の跡地に開場した三重交通山田球場で、沢村と西村の追悼試合として巨人対大阪タイガースのオープン戦が行われた。川上哲治、藤村富美男らが出場し、試合前の記念写真には西村の実弟と六歳の甥が写っている。「伝統の一戦」という言い方が定着したのは、まさにこの前後の時期である。

沢村は1959年、西村は1977年に野球殿堂入りした。1981年には後楽園球場の脇に鎮魂の碑が建てられた。

そして2014年(平成26)3月10日。全面改修された伊勢市の倉田山公園野球場で、市内65年ぶりの巨人対阪神のオープン戦が「伝統の巨人阪神戦80周年企画」として行われた。この日、巨人の全選手が沢村の14を、阪神の全選手が西村の19を背負った。それまで別々の場所に建っていた二人の胸像は、この日に隣り合わせに移された。除幕には両家の長女が立ち会い、西村の長女は両家を代表して、戦争で命を落とした野球選手の犠牲の上に今のプロ野球があることを忘れないでほしいと語った。像の脇の石碑には、14と19、そして「一球入魂」の文字が刻まれている。

七 現代の野球に残るもの

沢村賞は、いまも毎年、その年もっとも優れた先発完投型の投手に贈られている。分業制が進んで先発投手が完投しなくなった時代に、この賞は「エースとは何か」の基準として残り続けている。1989年からはパ・リーグの投手も対象になり、選考基準は時代に合わせて改定されている。

背番号は、球団の記憶の器になった。巨人の14は永久欠番として空いたままである。阪神の19は永久欠番ではないが、1975年以降はエース級の投手が背負う番号として扱われてきた。2020年のドラフトで阪神に入った投手が、伊勢の西村像に「巨人キラー襲名」を約束したという報道もある。番号は消えることで記憶される場合と、受け継がれることで記憶される場合があり、二人の番号はその両方を体現している。

戦没選手の記憶は、毎年8月15日の鎮魂の碑への献花として続いている。二人の名前は、野球の記録であると同時に、戦争の記録でもある。

伊勢は、二人を通じて自らを語るようになった。伊勢市は倉田山の胸像を公式に紹介し、2010年の西村生誕100年、2017年の沢村生誕100年には記念試合を開いた。西村の長女が式典で「伊勢市は日本のプロ野球のふるさと」と述べたのは、両家の側からの言葉である。二人の像が並ぶ球場は、いまも高校野球や少年野球の会場として使われている。

むすび

伝統の一戦は、東京と大阪の対抗として設計され、戦後に「伝統」と名付けられた。しかしその最初の三年、勝敗を決めたのは伊勢の二人だった。片方は18歳の速球投手、片方は26歳の大学出の技巧派。片方は巨人の初代エース、片方はタイガースの初代エース。片方は1936年に勝ち、片方は1937年と1938年に勝った。そして二人とも帰ってこなかった。

各試合のスコアは戦績のページに、用いた資料は典拠のページにあります。